沿革

■弊社は、国産発の園芸用具を製造した会社です。

明治40年、刃物鍛冶であった先々代 柴田眞左衛門が、横浜の貿易商(現 横浜植木株式会社)の

下請けとなり、その当時日本からの輸出量が最も多かったユリ球根の根を切る鋏を考案して、

納入を始めました。

その後、当時輸入に頼っていた園芸用具に日本の園芸愛好家の要望を取り入れ、国産品として

初の園芸用具の製造販売を始めました。

もともと輸入品ばかりだった各種園芸用具なので、その名残として現在も「ホー(hoe・鍬)」

「スペード(spade・鋤)」などの、英語名詞をカタカナにした名称が多くなっています。

もちろん、日本独自の名称を付けた道具もあり、例えば「移植鏝」は、先々代が左官鏝の職人に

依頼して製造したもので「スコップ」と呼ばずに「移植鏝」と命名しました。

これらが現在使用されている園芸道具の原型になっています。

 

■大正3年、当時の三越呉服店に設置された園芸部の指定納入業者として園芸用具の製作・納入を開始し、

大正11年に開催された大正博覧会には園芸用具を出品して、全品受賞しています。

また、同呉服店運動部の依頼により、大正末期には国産初のフィギアスケート刃を製作し、

昭和4年には秩父宮両殿下にスケート刃を、昭和9年には天皇陛下に園芸用具一式を献上いたしました。

弊社の商標マークにスケート刃が使用されているのは、この来歴によるものです。

 

■戦後、沖縄より復員した前相談役 柴田一男が鍛冶屋を再開し、

同時に当時の三越呉服店との取り引きも再開しました。

花を育てるより、食べられる作物を作ることが優先された混乱期でしたので、

一般農家用の農具を小型にした「家庭鍬」「園芸用シャベル」などの製造・販売が中心となりましたが、

その一方で、進駐軍によってもたらされた芝生の管理機械としての

「芝生鋏」「芝刈機」の製造・販売も始まります。

さらにバラを育てることの流行とともに、剪定鋏や植物の消毒や肥料管理などの分野へも

事業を拡大していきます。

 

■昭和30年に、刃物製造部門をゴルフ部として、汎用大型芝刈機の研磨、修理、改造等にも業務を広げ、

昭和50年にこれを柴田ゴルフ場機材株式会社として独立させました。

 

■高度成長期、需要の高まりと平行して、百貨店から大手スーパーへ、そしてDIY店へと園芸市場の粗野

も広がり、各業界独自の園芸関係用品が盛んに流通するようになります。

弊社も昭和46年に東京都文京区に本駒込本社ビル、昭和56年には埼玉県西浦和(現 さいたま市南区)に

営業所と流通センターを設け、現在に至ります。

 

■弊社はこれからも、日本で唯一の園芸用具から出発し

日本の園芸用具文化を作り発展させてきた会社として、そのノウハウを生かして植物と人と社会に

『安全で安心して使える園芸用具』を提供てまいります。

また、グループ会社である都市園芸研究所を中心に、海外の特徴ある園芸用具の開発・輸入を進め、

重ねてネット等の媒体を通じて市場動向の把握、専門講師による園芸教室開催など、園芸に関する

あらゆる情報を提供できるよう、努力してまいります。